
2025年2月9日 説教「心のうちにキリスト」 “Christ in Your Hearts”
箇所Text:エペソ人への手紙 Ephesians 3章16~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:10、166、185、545A番 招詞/Call to Worship:黙示録 Revelation 3章20節 交読文/Line-by-line responsive reading:7番 詩24篇(交読p5)Psalm 24
先程の讃美歌で「イエス君はいとうるわし…わが喜びなれ」と歌いました。心から歌えましたか。キリストを喜びと思って、近くにおられると信じますか。
教会でクリスチャンはよく、イエス様が心の内におられると言うかもしれません。それはどういうことでしょうか。そしてクリスチャンでもクリスチャンでない方でも、そんなに大切な事なのかと思われるかもしれません。使徒パウロがそう祈ります。この祈りは私たちがより深くイエス様を自分の喜びと思うためには大事であると、思わされているところです。
復習ですが、パウロはエペソ書3章16~19節で自分の、エペソの教会のための祈りを伝えます。17節は恐らく、二週間前に見た16節で父なる神様が聖霊様を通してクリスチャンたちを強めるという願いの結果としての願い事でしょう。この17節に焦点を当てます。
一、キリストの内住(17節)
- この箇所で、イエス様が御自分の弟子、信者の内に住んでくださること(「内住」)をパウロは求めます。「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。」そう、神なる方キリストが、霊的に人の内に住まうことができます。そのように、クリスチャンは祈り求めることができます。
- パウロの言葉は今朝の招き「わたしはその人のところに入って彼とともに食事を」と似ていますが、より強いです。イエス様が末永くいてくださるように、です。「住む」は「立ち寄る」「宿泊する」ではありません。「永く住む」「住みつく」です。イエス様がずっとあなたの内に住われるように、とパウロは祈ります。一生続く、キリストとの親しさを楽しめるように…。
- ちなみに、16節に出た聖霊様を通して、イエス様が信者の内に住んでくださるのです。
聖霊様とイエス様は全く同じ神ですし、箇所によっては両方が内におられると書かれています。ローマ人への手紙8章9~11節は、聖霊様を「神の御霊」とも「キリストの御霊」とも呼びます。それは「キリストが…うちにおられる」こととも言います。イエス・キリストが遣わす聖霊様がクリスチャンの内に住んでおられるのはイエス様が住んでおられること同然です。⑴
- では、一回イエス様に信頼を置いたらすでにイエス様が心のうちに住んでおられるから、パウロはなぜ改めて願うのか、と疑問があるかもしれません。前から、クリスチャンには御霊(キリスト)が住んでくださらないのか?
- 確かに、イエス様は全てのクリスチャンの内におられます。本当にキリストを自分の救いの保証人として信頼して、愛する主として慕って、反抗の罪を悔い改めるなら、イエス様はすでに心の中におられます。⑵ クリスチャン、心配は要りません。でも、キリストの霊が益々私たちの歩みの中心となるように、もっと求めます。
- 喩え(カーソン氏):お金をあまり持たない夫婦が金でぼろぼろの家を買って、住み始める。最初は、心地悪くて、内装も気に入らない。でも住ながらリフォームや増築を繰り返す。何年か後、彼らはその家を見て、夢が叶ったような家になったと喜ぶ。それで本当に、自分たちの楽しみ落ち着ける住まいとなった。イエス様も、私たち、教会またクリスチャンを喜ばしいものとして「改築」して、永遠の住まいにしたいのです。⑶
- エペソ2:22で教会は「ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなる」。
二、キリストの内住の鍵・(17節最初)
- 次に、イエス様(聖霊様)が私たちの心のうちに住まう鍵、手段をこの箇所で見たいです。どうすれば神様がパウロの願いを叶えてくださるのか、という問題です。
- 皆様も不思議に思ったこともあるしれませんが、私もクリスチャンはどういう経験で神様の親しさを得るか、不思議に思ったことがあります。例えば、御霊が内に住んでおられ、近いと感じない聖徒も、感じる聖徒もいます(経験は様々であり、また変化する)。また、熱心に祈れば劇的な変化で聖霊様に満たされ、以降、悩みが薄れると思う聖徒もいます。本当はどうでしょうか。パウロはどう祈るのでしょうか。
- 鍵は、今日の箇所が言う「信仰によって」です。「特に強い信仰によって」でもありません。単純に神様に信頼して、キリストを通して自分を委ねるなら、御霊は住んで、私たちを「改築」して、より良い住まいとしてくださいます。
- 特別に善い人はキリストの住まいとなり、他はそうなれない、のではありません。この箇所は教会全体のための祈りです。ただし、イエス様が住まうのを求める分、私たちは従おうと思うでしょう。その分に応じて、クリスチャンとして喜び、聖霊が内に住んでおられること、神様との交わりを経験できるでしょう。(エペソの他の箇所でまた触れます。)
- 神様と親しい感覚は常ではないかもしれません。でも感じなくても、神様の約束を信じるのが鍵です。ルカの福音書11章13節「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」信じる理由があります。天の父、御霊、子なるキリストの、愛から生まれる愛です。最後に、キリストの内住の土台として、愛を覚えましょう。
三、キリストの内住の土台(17節後半)
- クリスチャン生活の特徴は何ですか。キリストが内に住まわれると何がありますか。そう聞かれたら、聖書知識として、そして経験上、どう答えますか。パウロが17の最後に祈るのは、信徒たちが共に、愛の土台をしっかりと持って、家に住まわれるキリストによって愛を特徴とする歩みをすることです。
- 17節の終わり「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」は18節の前置きではなく、17節の願い事の特徴と見た方がより自然な文法の書き方です。「信仰によって、【愛に根ざし、愛に基礎を置いている】あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。」(新共同訳の訳し方参照)
- キリストが住まわれるその鍵は信仰ですが、その「土壌」あるいは「土台」は、愛です。
- 「愛に根ざし」は植物が植え替えられて、新たに元気づけて根を張っていく姿。
- 「愛に基礎を置いている」は2章でも出た建築の表現で、愛という土台がしっかりあることを意味します。
- 愛の土壌に根を張って、愛の土台に基が有ると、今度私たちも愛を神様に、人に向けることができます。この歩みは愛が源であり、特徴となるようにパウロは祈ります。
- キリストが住まわれるその鍵は信仰ですが、その「土壌」あるいは「土台」は、愛です。
結び
愛で終わりますが、聖書の「愛」は人間中心ではありません。神様を第一に、隣人を次に、最後に自分を置く愛です。ですからイエス様にずっと住んでいただき、親しく、愛の内に歩もうと思うと、ある意味で自分を捨てる必要があります。よく考えてみれば、クリスチャンになるのをやめたいと思うほど、大変なことかもしれません。
神様に住んでいいたくのを真摯に受け止めると、天のお父様の言うとおりに従う必要もあります(エペソ5:18参照)。「イエス様。そこまで入って来ないで、好き勝手にさせてください」と思うときはどのクリスチャンにもあります。(愛したくない人を愛すべきときなどに)。ただ福音で示される神様の愛を確信してこそ、自分を委ねてキリストの内住を求めたくなるでしょう。
内に住まおうと思って下さるイエス様は、私たち綺麗さ、真面目さ、信仰の厚さを基準に選んだのではありません。「愛されるはずの者だから」ではありません。言うなら、私たちは焼き焦げた、腐敗した材木の家です。
でも私たちに説明も理解もしきれない、神様の恵みだけの故に赦され、神の住まいになることができます。信じる者の内に住まうためにまずイエスは地上を住まいとして、十字架で人の罪の責任を転嫁されて、代わりに刑罰を受けて死なれました。この愛を信じますか。このイエスの麗しさを信じて、自分の心の醜い部屋を明け渡せますか。自分をキリストに委ねますか。神の愛に根差して、土台を置いて、キリストを益々心の内に歓迎しせんか。
振り返り:キリストの霊が内に住んでくださることを喜び、期待しますか。
参照:ローマ8:9-11、ルカ11:13、エペソ5:18
註
⑴ エペソ書の4章と5章にも聖霊・御霊と信者との関係が出るので、この手紙を読み返す機会に、参照箇所と思ってください。
⑵参照:コロサイ1:27、ローマ8:10、ガラテヤ2:20、第二コリント13:5。
⑶ D. A. Carson, A Call To Spiritual Reformation: Praying with Paul (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2014) 163-164。(日本語訳あり:今井敦子訳、『祈りの力と霊的改革』)