
2025年2月2日 説教 「嵐を用いられる神様」 “The God Who Uses the Storm”
箇所Text:ヨナ書Jonah1章1〜17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア
讃美歌/Hymns:75、89、520、312、541番 招詞/Call to Worship:詩篇Psalm 107篇23~32節 交読文/Line-by-line: 9(詩29篇)(Psalm 29)
初めに
「嵐」を聞くと、何か思い出はありますか。嵐は怖いですね。台風のような嵐もあるし、人生のいわゆる嵐もあります。「これをどう乗り越えられるだろうか。乗り越えられるだろうか。神様はどこだろうか。」と、思うことがあります。
私たちが神様をどう見るかによって、「嵐」の見方と通り方が変わります。神様は無頓着な運命を下さる方なのか。「もしかしたら」答えてくださる、忙しい上司の様な方なのか。意地悪なのか祝福と刑罰を処する、厳しい裁判官か。それとも、嵐をも用いて、私たちの必要また罪を明らかにしながら助けの道をも差し出す救い主なのか。
今日の話は文字通り、「嵐」と「波」が登場人物を取り巻くエピソードです。しかし、それはただの偶然や不幸ではなく、天地を創造された神様が用いられて、登場人物を取り扱う話でもあります。まず主がヨナを召し、ヨナが反応する場面(1-3節)、ヨナと船の水夫たちに対して神様が働きかけるやりとり(4-15節)、そして神様が他の登場人物を導かれた結果(16-17節)があります。最後に、適用の質問を申します。
一、神の召し、しもべの反応(1〜3節)
最初に、創造主なる神様、ヤハウェが
1-2節 アミタイの子ヨナに、次のような【主】のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
「アミタイの子ヨナ」は第二列王記14章23節にも登場する歴史的人物です。イスラエル王国北部出身の預言者でした。イスラエルを愛する、しかもイスラエル王国の復興を予言した人でした。
ニネベは、イスラエルの最大の敵の一つでした。古代アッシリア帝国の中心の都市でした。アッシリアは、残虐な手段で多くの国を制服した帝国でした。ヨナはニネベに向かって、その「悪」を指摘し、災いを警告するという使命を受けました。しかし彼にとって、ニネベは神様の警告すら受けるに値しない、すぐに滅んでしまえば良い町でした。
3節でヨナは指示どおり立ちますが、それからどんどん「主の御顔を避けて」ニネベを避けようとします。イスラエル人にとって祝福の源の主のいるところを逃れようとします。ヨナが選んだ船はタルシシュ、多分現代のスペイン行きでした。何ヶ月間もの旅を惜しまず、異邦人に囲まれる生活を受け入れて、ヨナは「船賃を払って」、平気で眠りました。
二、神の働きかけと人間の対話(4〜15節)
しかし、神様はヨナの計画を覆し、さらに、異邦人の水夫たちにも働きかけます。嵐で。
4節 ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。
熟練した水夫たちも怯えるほどの嵐を神様が送られます。5節で水夫たちは「恐れて、それぞれ自分の神に向かって叫」ぶが、助けが来ません。さらに必死になり、「船の積荷を投げ捨て」ます。まだ、嵐は止みません。
6節で船の船長は呑気に寝入ってしまったヨナを起こして、ヨナの神に助けてもらえるかもしれないと淡い希望で祈らせようとします。皮肉なことに、預言者のヨナより希望を抱いています。
しかし、波風が止まらず、水夫たちは次に7節で言い合います。「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」水夫たちの場合、神々を怒らせた人を見つけて対処方法を知ろうと思って、くじを用います。でも嵐も、くじもまぐれではありません。神の摂理でした。ヨナ書1章7節によると「そのくじはヨナに当たった。」
ヨナは神に焦点を当てながら自己紹介をします。「私は、海と陸を造られた天の神、【主】を恐れる者です」と。おもに海の神を拝んでいた水夫のフェニキア人と違って、全世界を創造された、風を送られた「天の神」「ヤハウェ」を指します。
10節は水夫たちの混乱と恐怖を描きます。「主を恐れる者です」と口が言いながら、「【主】の御顔を避けて逃れようとしている」とヨナが告白した訳です。「何ということをしたのか」と水夫たちはもちろん、怒ります。しかも、ヨナの神に狙われていると分かると、5節の恐怖に勝って「非常に恐れ」ます。
ヨナは12節で解決策を出します。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。…」他の人を助ける為に命を捨てて素晴らしいと聞こえるかもしれません。しかし、これは自分の考えを頑固に貫こうとしたヨナの「諦め」「覚悟」です。本当は、ヨナが主の恵みを信じて、悔い改めてとりなしの祈りをささげたら良かったでしょう。でも、そんなに悔しいこと、そして助かってニネベへ行くより、死んだほうがましだと思いました。
水夫たちは13節によると奮い立って、もう一度、自力で助かろうと一生懸命に漕ぎますが、疲れ果てます。おそらく人生で初めて、イスラエルの神に向かって祈ってみます。ヨナを海に投げ込むことは彼を殺すこと同然だと理解して、水夫たちが赦しを願い求めます。
14節前半 「ああ、【主】よ。どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。…」
そして、15節でヨナを海に投げ込みます。「すると激しい怒りがやんで、海は凪になった」とあります。主は祈りを聞いてくださいました。
三、神の導き(16〜17節)
この章の終わりで神様が水夫たちとヨナのために、嵐からどういう結果をもたらされたかを見ましょう。
1)まず、水夫たちです。16節「人々は非常に【主】を恐れ、【主】にいけにえを献げて誓願を立てた。」水夫たちは単なる恐怖ではなく、具体的に「非常に【主】を恐れ」、その場で礼拝していけにえを献げました。後も礼拝を続けると誓いを立てます。こうして、神様は、逃亡中のヨナが「偶然」かの様に出会った異邦人を礼拝へと導いてくださいました。
2)また、17節はヨナの行方を伝えます。「主は大きな魚(さかな)を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」主はあわれみを持って、ヨナが溺れ死なないために「魚を備えて」くださいました。反抗的な偽善者のヨナを見捨てませんでした。
こうして、神様は嵐とヨナの反抗さえも用いて、神様と無縁のように思われた異邦人を信仰へ導いてくださいました。さらに、ヨナを守ってくださり、続く話で導き続けられます。
適用
さて、ヨナ書1章を基に、適用の質問をしたいと思います。自分を取り巻く「嵐」の中で、あなたはどこを向き、何に希望を抱きますか。
念のため言っておきますが、人生の辛い経験のいわゆる「嵐」は刑罰とは限りません。むしろ、それを知ることもできません。苦しみの原因を完全に解説することができませんし、そこまで知る必要もありません。むしろ、私たちが「嵐」で苦しむ時、どこを向くかが大事です。
危険や辛いことに直面すると、私たちは色々な反応をします。水夫たちのように、自分ばかりに頼ったり、自分で直そうとしたり、苦しみを誰かのせいにしようとしたりするかもしれません。ヨナのように赦しを求めず、意地を張って苦しみ通そうとするかもあしれません。私なら、そのいずれもしたことがあると認めます。あなたはどうですか。でもこれらはどれも要するに、私たちは自分が主人公かのように、「嵐」に反応しがちです。自分と自分の能力、信仰などに目を向けがちです。
しかし、私たちの人生の物語の主人公は、主なる神様です。神様が全てを計画なさいましたし、全てを支配してくださいます。そして嵐のような経験を通しても働きかけ、ご計画どおりに祝福を下さいます。私たちにはその計画が解らないことがあっても、主はそうなさいます。
ですから、別の質問をします。嵐の中でも、神様が祝福を持ってあなたに向いておられると信じますか。そして、そうであれば、なぜ祝福をいただけると信じますか。
私たち人間にとって本当の祝福とは、ヨナが3節で避けようとした「主の御顔」です。神様が祝福の御顔を罪ある人に向けるのはそもそもあり得ないことです。根拠がない限り、祝福の御顔は向けられません。なぜ神様は愛を持って私たちに向かれるのでしょうか。イエス・キリストが祝福の根拠だからです。
イエス様はある意味でヨナと正反対の心を持っておられました。主に逆らって逃げたヨナと違って、キリストは主に従うゆえ、 真っ直ぐに神様のことばをイスラエル人にも異邦人にも語ってくださいました。同時に、(新約聖書でもこの二人が比較されるように)イエスのようなヨナ歩みを、ヨナ以上に歩まれました。ヨナは自分勝手にイスラエルから海へ、船の底へ、そこから海へと悪いほうへどんどん下りました。イエスは祝福するために天から地へ、そしてさらに十字架の苦しみと呪いと死へ、墓へ、と下ってくださいました。
なぜなら、ヨナと水夫たちを恵みの嵐で捕らえた神様は、イエス様を刑罰の嵐の中へ遣わしてくださいました。イエス様は私たち信じる者の罪を償う身代わりとして神の裁きの嵐を、十字架の上で鎮めてくださいました。これゆえ、イエス・キリストに信頼を置く者は神様の御顔が照らすところで認められ歓迎されます。何も私たちをキリストの義と愛から引き離せません。
あなたは神様を向いていますか。神様に信頼して、イエス様に信頼しますか。クリスチャンの兄弟姉妹であれば、あなたを神の愛から引き離すものがあり得ません。人生の嵐の中でも、神があなたに恵みを持って現れることを信じてください。私たちの行いは罪深い反抗です。助けになりません。しかし、主イエス・キリストが下って、死んで、今神に執りなしておられるから、頼りになれます。そして今まで神から離れて歩んで来た方。今やこれからの人生の嵐で、あなたを造られた神に立ち返る機会が与えられます。呼び求めてください。
主イエスを通して与えられる希望を持って、へりくだって、祈り求めましょう。
説教の振り返り:あなたが今(最近)経験している「嵐」で、神様があなたにまだ御顔を向けてくださると信じて歩まれますか。