2025年1月5日 説教「キリストこそ」”Nothing but Christ” 

聖書箇所:コリント人への手紙第一2章1〜5節 

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 

 讃美歌/Hymns:66、166、142、148、541番 招詞/Call to Worship:詩篇Psalm 62篇5~8節 交読文/Line-by-line:38 イザヤ書40章

今日の親睦会で、昨年を振り返って漢字一文字で表す時間を持つ予定です。一年を一文字でまとめるのは難しいと思いますが、使徒パウロは自分の働きの目的を一つにまとめました。この新年に、彼と一緒に、私たちの歩みの目的を共に考えたいと思います。

コリント人への手紙第一の背景ですが、コリントは現代のギリシャの南半分の都市でした。貧富の差の大きい、全体的に栄えた町でした。パウロがそこで伝道して、教会を開拓したことが使徒18章前半に記録されています。ところが、彼が他の地へ移った後に、その教会内で周りの社会のように競争心が燃えて、それぞれのクリスチャンが自分に有利なように歩んで、分派などの混乱が起こりました。それに対してパウロは、彼らの多くはそもそも教養や影響力、家柄などを持たない凡人だったのに、創造主なる神様の恵みが祝福の鍵だと説きました(1章後半)。イエス様が神との関係を生かす全ての祝福(義・聖・贖い)の源とであることも、1章30節で主張して、31節では、誇るなら主イエスを誇れと言った直後に今日の箇所があります。

2章でもパウロが自分の体験の観点から、同じ課題、すなわち競争する虚しさを教えます。

1節 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

自分がコリントに行って宣教したときに何を大切にしたかを思い出してください、とパウロは言う訳です。コリントで重んじられる当時のはやりの修辞法やドラマチックな演説つまり「すぐれたことばや知恵」を用いませんでした。寧ろ、「神の奥義宣べ伝えること」の内容に集中しました。「神の奥義」とは、神様が旧約時代にほのめかして、予告され、新約聖書の時代により明らかにされた真理、事実です。具体的にイエス・キリスト様が成就し可能にされた事柄の真理です。

重大なことなのに、パウロは飾らずに伝えたのです。その理由は2節にあります。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

実際、パウロは色々なことを語ったでしょう。コリント人はおもに異邦人なので、聖書のこと、イスラエルの背景、神様の律法などの基礎から始めて、教える必要がありました。しかし、何について話しても、それは一つのことに到達して、集中したということです。「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた」。つまり「キリストこそ」語らなければいけないと確信していました。聞く人がパウロのことを忘れても良い。とにかく、「十字架につけられたキリスト」こそ知ってほしかったのです。

もはや、世界中でジュエリーとして十字架を用いられる時代となり、その発言が与えたはずの衝撃は想像しにくいです。十字架刑は痛みと屈辱を極めた処刑法であり、下品な、禁断(タブー)の話題とされました。奴隷やローマ国民権を持たない人のみに課せられる、残酷で非常に恥と弱さを帯びた処刑でした。救い主と十字架刑を一緒にすることは考えられませんでした。でもパウロがそれ以外のことは「何も知るまいと」思いました。

3~5節でパウロはこの2節をより具体的に振り返ります。3節では、自身が「弱く、恐れおののいていました」と言います。金とコネと劇的な演説法で差を付けたがるコリントの街で嘲られ攻撃されることを覚悟していたでしょう。同時に、神のメッセージを正しく伝える責任を負っていました。嫌な思いをするにしても、恐れても、進むように掻き立てられました。

4節でパウロの秘密武器は「人間の知恵」(先ほどの格好良い話など)ではなく、「御霊と御力」でした。自分で無力に感じても、人の救い主が十字架を通って死に、さらに神様の力によって復活したという知らせを貫こうとしました。そして聖霊様に結果を委ねると、人が受け入れました。コリント人の心が変えられて、「御霊と御力」がはっきりと現れました。

5節もパウロは「あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです」と自分の話し方の意図を強調します。いわゆる信仰がもし人間の知恵によって覚まされたなら、別のはやりや劇的な体験、感情的な経験によって、変わってしまい消えてしまうことがありえます。しかし、全く揺るがない土台はキリストこそ、「神の力」にかかっています。

さて、2025年の初めにこのテーマを取り上げたのは、私たちはコリント人のように同じ知らせを必要とするからです。自然「十字架につけられたキリスト」を思って歩むことはできません。人、そして神様に受け入れられたい、認められたいという思い生まれつきあります。それ自体は悪くありませんが、私たちは自分を良く見せかけて、神様に頼らない、蔑ろにする生活をしようとしがちです。これは「罪」です。

結果として、人目と世間は私たちの行動を支配して、心を導こうとします。それらは「好かれること」という「飴」と「恥」という「鞭」で導いて、私たちを「神の奥義」つまりキリストの十字架から遠のかせてしまいます。今年も、私たちは自分の良さを示したいと思うときがやって来るでしょう。そして聖書の教えを聞くとき、「自分にはできる」と思いたいでしょう。

でも、私たちにはそんな良さはありません。神様の聖なる律法を守ることはできません。私たちの賢さ、見た目、人気度、力強さ、立派な行動、情熱は神様を感心させて、祝福と歓迎を得させることができません。私たちに恥ずかしい話、「十字架につけられたキリスト」が必要です。イエス・キリストの十字架はイエス様に一時的な恥を負わせましたが、それは同時に私たちの実際の弱さと恥、そして罪を暴露することです。「救い主なる王様が十字架にかかって人を救う」という福音の良い知らせを言い換えると、こうなります。

聖なる神様からすれば、あなたは十字架刑を受けるのが当然なほどに惨めな、恥知らずまた恩知らずな罪びとです。神様への反抗(罪)を償いきれない、神様に認められる義は一切ない者です。 しかし、キリストは罪びとの身代わりとしてあのように十字架の上で死なれました。十字架上で神様の裁きを受け、究極の「弱さと恐れおののき」をあなたが通らなくても良いように、イエスが通ってくださいました。あのように十字架で苦しみ、死なれたほどにあなたを愛して、神様の赦しを受けるように招いて、心を変えてくださる。

これほど受け入れがたいことはありません。私たちに誇れるものは残りません。だからほとんどの人はイエス・キリストを信じたがりません。けれども、「十字架につけられたキリスト」こそに望みがあります。

今日の箇所から、人にイエス様を伝えるときの心構えを当然、見習えます。しかし、それ以上に、まずキリストこそ、私たちが知るようにと、今年の歩みについて勧めます。聖書を学ぶと、するべきことをたくさん知るようになりますが、それは私たちの罪を通して十字架のキリストに直結します。このキリストこそに、日々立ち戻ってください。「弱さと恐れおののき」を感じる度に、イエス様が十字架で私たちの平和を買い取ってくださったと覚えてください。イエスに信頼して従おうとする私たちは、ただイエス様の義と恵みに覆われています。それで神様に正しい、愛される子として認められて、恐れに打ち勝つことができます。

例えば、人に対して苦い思いを抱いた場合、罪を犯した訳ですが、気づくそのときに新たな誘惑があります。罪を隠すか、人のせいにするか、自分で償おうとするか、色々な誘惑があります。イエス様は、その罪を早く認めて、赦しを受けるために神様に立ち返るように招かれます。その罪は確かに神様にとって憎いものですし私たちにとって恥ずかしいことですが、神様の愛を、キリストこそ、キリストの十字架こそで、確かめてください。そうして、一歩ずつ新年で歩みましょう。クリスチャン生活は二本の脚で歩まれると言います。片脚は信仰、もう片脚は悔い改め。2025年、キリストこそに信頼して、共に歩みたいと思います。

振り返り:今年、「十字架につけられたキリスト」を中心にするように励ます相手や祈る聖句を見つけてはどうですか。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)