2024年12月8日 説教「その子の肩に」”On His Shoulders”
聖書箇所:イザヤ書9章2~6節 Isaiah 9:2-6 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌:10、242、114番 招詞:第一ペテロ2章24~25節
肩車をしてもらう子供を見たことがありますか。あるいは、肩車をしてもらったことがありますか。体が軽くなって、飛んでいるような体験でしょう。でもそのために、子を担いであげて、多少苦労した大人もいます。教会がクリスマスを覚える理由の一つは、たとえて言うなら、イエス様が弱い者、創造主なる神様に反対してきた罪びとを肩に乗せて、助けるためでした。この観点から、アドベントまたクリスマスの良い知らせを共に見ていきたいと思います。
イザヤの預言書は、イエス様の誕生の八世紀前に書かれたでしょう。色々な強調点はありますが、一つの大きな、大切な予告をしました。即ち、イスラエル、そして世界中の人々が暗闇の中にいても、救い主が来るのを待つように励まします。大きく分けると、イザヤ書は神様に反抗する人の「わざわい」を告げる前半と神様に信頼する人への「慰め」を宣言する後半とから成っています。ところが、今日の旧9章(書簡の前半)の中でも、人間の罪の結果の悲しみだけでなく、慰めの兆しも書かれています。
8章の終わりの背景を言うと、主なる神の教えを拒む者たちは大きな、全面的に暗闇に覆われると書かれています。神を憎んで生きているので、政治的、物質的、精神的、霊的な面で惨めに暮らします。(エペソ書2章の初めで見たように、世の力と悪魔の影響と自身の罪深い欲望に支配されて、霊的に言うと神様からすれば死んでいたのです。)あなたの足を引っ張る「闇」「罪」の心当たりはありますか。ところが9章の始めに希望の兆候として、光も預言されます。
2節「… 闇の中を歩んでいた民は
大きな光を見る。 …」
イザヤは続いて、9章3から5節まででイスラエルの希望を喩えで表現します。3節では豊富な作物の喜びに喩えます。4・5節では虐げられてきた民が圧制から救われて安心に暮らす姿に喩えます。特に4節にある表現に注意したいです。これは主なる神様への告白です。
イザヤ9:4 あなた〈主〉が、彼〈主の民イスラエル〉が負うくびきと
肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、
ミディアンの日になされたように
打ち砕かれるからだ。
「ミディアンの日」とはかつて、イスラエルが敵ミディアンに長く虐げられた後に将軍ギデオンの助けにより救われたことをほのめかします。それより、イスラエルの惨めさの描写に注目したいです。虐げられた間、「負うくびきと 肩の杖、…むち」と色々な痛みの道具がありました。肩に重くのしかかる、苦しい労働の「くびき」。処罰または苦役の「杖」。懲らしめの痛みを与える「むち」。でも打撲や重荷でうずくまっていた肩が、楽になると言います。暗い心と暗い人生を歩んでいた人々に希望が、外から差し込みます。救い主「あなた」、主からです。
この理由として、有名な6節が来ます。原文では、6節は「なぜなら」と始まります。先ほどの希望の根拠とは、曖昧な運命や人間の知恵ではなく、神様が賜う「人」の赤ちゃんです。今日は6節前半まで見ます。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、 …。
神の御教えを拒んで、苦しみと暗黒を選んでしまった、2節の「死の陰の地に住んでいた者たち」にとって、無力そうな、ひとりの赤ちゃんに望みがあると宣言されました。
6節は続きます。「主権はその肩にあり…」。約束された赤ちゃんは王となり、主権を担ってくださるということです。「肩」という語は旧約聖書にあまり出ませんが、 2節前の9章4節にもありました。懲らしめ、また奴隷の労苦を受けていた「肩」が解放されると言った上で、神がこの「男の子」を通して豊作と勝利と平和のような助けを与え、治めるのです。その子は重い責任を負うということです(イザヤ22:22参照)。民はただ失敗して罪を犯してきたのに、王が救ってくださいます。この王の名は、後から私たちは分かりましたが、イエス・キリストです。
どういう風にイエス様が主権をその肩に負って、救ってくださるのでしょうか。9章6節のことば通りに、王として、全ての責任を負ってくださることです。その肩に負ってくださった二つの責任を考えてみましょう。
一つ目に、イエス様は王として、その民の日常の必要と悩みを取り扱ってくださいます。国王、知事、市長などは地域や国の重大決断の責任を担って、市民にとって良いことを求める責任があります。イエス様は、ご自分に属する「民」の集まり(教会)のために、あらゆることを担ってくださっています。私たちはイエス様に従いますが、イエス様に従うことは虐げのくびきに換わって、「軽いくびき」を負うことに喩えられています(マタイ11:28–30。讃美歌242番参照)。イエス様は共におられ、守り導いてくださるので、その肩に主権を担っておられます。
二つ目に、イエス様は王の主権を担い、第一に反抗者を暗黒の国、悪魔と罪の奴隷である生活から解放して、民としてくだいます。すなわち、私たちの肩に降りかかるはずの「杖」と「むち」の刑罰をその肩に受けてくださいました。決定的に光と恵みの国へ移すためにも(第一ペテロ2:9)、主権を肩に抱えてくださいました。莫大な借金を返済できない人のために立つ保証人のように、イエス様は人々を滅びから守るために、ご自分の肩にその民の(私たちの!)犯罪の刑罰を背負ってくださいました。ご自分に対する罪なのに、ご自分が責任を負う、というとんでもない恵みを人々に向けてくださいました。イザヤは後のイザヤ書53章6節で次のように述べました。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を
彼〈王なるイエス・キリスト〉に負わせた。
さて、私たちは今日の箇所の成就をクリスマスで祝います。イエスは貧しい家族に、ベツレヘムという町でお生まれになりました。(ルツの話と同じ場所)そしてイザヤ書9章6節の「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」という預言の成就のニュースを最初に聞いた人々は羊の夜番をしていた羊飼いたちでした。彼らは社会にあまり尊ばれない人でした。自分が輝かしい者だと思わなかったでしょう。しかし、彼らに神様の天使が現れ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と言いました(ルカ2:11)。救い主となる「みどりご」(イザヤ9:6)は、高ぶる人間に歓迎されるために来たのではありません。救いの王に自分を委ねるほどに罪と弱さを認める人のために来られました。
ただ、クリスマスは王の勝利そのものでなく、王の宣戦布告に過ぎませんでした。やがてイエス様は王として、「その肩に」王の責任を担われました。罪びとが受けるべき罰を身代わりとしてお受けになりました。その民に代わって、神の戒めを完全に守ってくださいました。そして十字架と復活で勝利を成し遂げられた、究極の王です。今からも、霊的な救いを受け始めていて、保証を受けています。精神的、社会的、身体的に助けられ癒されることもありますが、そうとも限りません。今も、私たちは待ち侘びて、完成を待ちつつ励みます。永遠のいのちという救いは、十字架と復活で保証されています(第一コリント15:3-58、黙示録21-22章参照)。
私たちはどうすれば良いでしょうか。イエスの約束を疑っていますか。自力で光に入ろうとしますか。しかし、私たちのために、赤ちゃんのその小さな肩は大きくなり、主権を担われました。罪の闇に勝てず、イエスを、自分を救ってくださる王として信頼を寄せるなら、その子イエスの肩に全ての悩みを下して良いです。今日の悩みを委ねてください。王なるイエスがあなたの悩みに同情して、あなた自身を「その肩に」担いでくださるように信頼してください。あなたの罪の重荷と罰を「その肩に」受け、十字架で葬り去らせてくださったと拠り頼んでください。そうすれば、あなたの肩も軽くなっています。そうして、イエス様の再臨と救いの完成を期待して待ちましょう。
もちろん、私たちはまだ、罪の結果として、色々な「闇」を体験して悩みます。しかし、イエス王は共におられ、抱えて、導き守ってくださいます。私たちは大丈夫です。アドベントに主イエスが再び来られるのを待ち疲れそうになっても、イエスの「その肩」で救いが保証されています。感謝して、期待しましょう。