2024年11月24日礼拝「キリストこそ私たちの平和」”He Himself Is Our Peace”
聖書箇所:エペソ人への手紙2章14~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌:73、286、191、541番 招詞:イザヤ57章15~19節
平和があればいいのにと思いますが、私たち人間はやはり敵になってしまいがちですね。子どもの喧嘩でも、大人の争いでもそうです。貪欲から来る敵意、復讐心から来る敵意、高ぶりから来る敵意…。ニュースだけでなく私たちの身近な集団でも見られます。敵意があると平和は出来ません。
しかし、クリスマスでも祝うが、イエス様は「平和の君」と呼ばれます(イザヤ9:6)。今日の箇所は、イエス様下さる平和の意味をもっと教えてくれます。即ち、イエス・キリストは敵意の根拠を取り除き、結果として平和をもたらしてくださいました。さらに平和を届けてくださいました。「キリストこそ私たちの平和」。この意味をよりよく分かった上で、どう実践するか考えましょう。
一、敵意の根っこを取り除き(14節・15節前半)
- パウロは14・15節で、イエス様が何をなさったかという観点から「キリストこそ私たちの平和」を説明します。
- 「キリストは私たち二つのものを一つにし…」「二つのものを」は要するに、前回見た、敵意のあったユダヤ人たちと異邦人たちです。私たちに馴染みのない分け方かもしれませんが、当時の教会の人にとって、最も深い溝、高い壁の一つでした。だから、全く相容れない二つのグループが一つにされたのは、劇的な宣言です。
- 次に、どのようにしてイエス様が「二つのものを一つに」されたかが書かれています。「…ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し…」は幾つかのことを現します。
- ①イエス様は「肉において」、ご自身の肉体の苦しみと犠牲によって、、平和を作ってくださったことです。それは身代わりとして受けて平和をもたらしたことを意味します。
- ②言うまでもないかもしれませんが、敵意は平和を妨げます。イスラエルの民の多くはモーセの律法(シナイ山の契約)に従わない諸国民を「異邦人」として「外」と見なし、彼らから離れた「聖なる」民であろうして、敵意を抱いていました。彼らの礼拝の場にも、その気持ちは現れました。エルサレムの神殿の外庭に異邦人は入ることができましたが、現在でも残る、内庭を囲む壁がありました。その垣根を超えて、内庭に入る異邦人は処刑されると警告されました。平和はありませんでした。
- ところが、15節「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」旧約聖書で読むと分かりにくかったりする聖別や献げものの儀式が出て来ます。イスラエルが神様によって聖別されたものだと意識させる事柄、パウロはこれらを言っています。
- 「廃棄」とは、それが意味なかったという訳ではありません。むしろ、イエス様はそれらを成すために来られました。マタイ5:17-18参照 イエス様は律法の中で民を特別に取り分けるそれらの掟(割礼など)を、それらをも完全に行って成就されました。神の民に入る人全体の代表としてそうしてくださいました。
- さらにイエス様は代表として、その民が神の教えに背くことに対する律法の刑罰を身代わりとして受けてくださいました。ガラテヤ3:13-14 「ご自分の肉において」イエス様は十字架で呪いを受けました。神様から下されるべき刑罰が処せられ尽くしました。宥めてくださいました(第一ヨハネ2:2)。もう、神の民に向けられる敵意はありません!逆に、イエス様は祝福を「二つのもの」、一番遠く離れ合っている人々、例えばユダヤ人と異邦人同士のために獲得してくださいました。
- イエスは敵同士を、愛し合う者同士に変えてくだる力があります。
二、キリストの平和の結果(15節後半・16節)
- さて、15節後半は「こうして」と始まります。キリストは古い律法の決まりを成就することより、16節までの次の出来事を行われました。
- 15節後半「こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し」は14節の繰り返しでもあります。最初の人、アダムは神様によって無から造られ身体の命を受けましたが、ここの「新しい一人の人」神の民全体です。敵同士が共に生きる者の共同体として霊的にいのちを受けて造り変えられました。民族と儀式によって敵対していた者同士は一つの共同体となることができました。
- 16節前半「二つのものを一つのからだとして…」。誰であっても、神の前で同じく罪びとです。しかし誰であっても、イスラエル人と異邦人ほどの壁が間にあったとしても、唯一の仲介者イエスの「からだとして」一つにされることができます。もしかしたら、あなたにとって苦手なクリスチャン兄弟姉妹がいるかもしれません。そうであっても、キリストのお陰様で、あなたは実際にその人と共に同じ「からだ」の共同体を構成しています。
- 16節後半「十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」人間同士の敵意だけではありませんでした。最初の最初の夫婦は創世記3章7節で互いの前で恥、12節で責任転嫁野中で敵意を体現しましたが、先に彼らは神に反逆し、神様に敵対してしまいました。そこで悪魔と同盟を組んで以来、神を知りながらも拒み憎む者です(ローマ1:18-23、5:17-19参照)。でも、十字架でイエス様は、神様との敵意を死なせてくださいました(エペソ2:14参照)。神様の、罪びとに対する敵対と聖なる怒りを宥めてくださいました。誰であっても、イエスに信頼する者なら、あなたは神様から平和を受けることになっています!
- 以前まで敵同士だった者たちは一つとされ、共に神様が受け入れる、神様と和解させられました。イエス様が十字架に行ったのはこのためでした。
三、キリストが宣べてくださった平和(17・18節)
- 続く17・18節はイエス様の死と復活の後に、平和を届けるためにどうされたのかを伝えます。
- 17節 「また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。」イエス・キリストが来られて、福音を宣べ伝えたと言います。確かに、そうし始めました(ルカ4:16-19)。ただ、「あなたがた」エペソ人に伝えたのは実際、パウロなどの使徒たちでした。イエス様は天に昇られてから、20節に出る使徒たちなど、遣わされる人間を通して、福音を宣べ伝えてくださいます。(コロサイ1:24-29、エペソ3:1-9参照)私たちにも、宣教する者を通してイエス様から、「平和を、福音として伝え」ていただきました。
- パウロはここでイザヤ書57章19節(招詞より)をほのめかしているでしょう。遠くにいた人(異邦人)でも、近くに(イスラエルの民の内)でも、イエス・キリストが探し出して、和解させてくださいました。
- 18節「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」私たちが平和の福音を聞いたのは、イエス様が近づく道を用意されたからです。キリストは「一つの御霊によって」、父なる神に近づく道が出来るようにしてくださいました。だからこそ、神の前をに出るように招かれます。参照:ヨハネ14:6
- 17節 「また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。」イエス・キリストが来られて、福音を宣べ伝えたと言います。確かに、そうし始めました(ルカ4:16-19)。ただ、「あなたがた」エペソ人に伝えたのは実際、パウロなどの使徒たちでした。イエス様は天に昇られてから、20節に出る使徒たちなど、遣わされる人間を通して、福音を宣べ伝えてくださいます。(コロサイ1:24-29、エペソ3:1-9参照)私たちにも、宣教する者を通してイエス様から、「平和を、福音として伝え」ていただきました。
適用として問いたいです。私たちはイエス様に信頼して、父なる神に近づきますか。当然クリスチャンなら、そうしている積もりでしょう。でも実際に避けたいと思う理由があるかもしれません。神様より楽しいことがあると感じるかもしれません。自分は悲し過ぎて、あるいは汚れ過ぎて、恥ずかし過ぎて、他の人と関係が悪過ぎて、近づけないと思うかもしれません。しかし、父なる神様は全ての人を招いてくださいます。世に愛を示しておられます(ヨハネ3:16)。イエス様は喜んで、「ご自分の肉において」(エペソ2:14)、「十字架によって神と和解させ」てくださいました(16節)。教会、キリストの「一つのからだとして」(16節)、人間同士の「敵意を打ち壊し」てくださいました(14節)。神との、また人との平和が始まりました。
キリストにあって、神様の前で恥じ入って、憚る必要はありません。そして他のクリスチャンについても、敵意が取り扱われています。私たちが今のこの礼拝でしているように、国籍、出身、職業は関係ありません。意見の違いと対立でも時にあるかもしれませんが、キリストが敵意を取り扱い済みです(讃美歌191番参照)。もし敵意を示されたら、それを捨てられるように祈り求めてください。私たちは同じ聖霊様によって、同じ救い主の和解の御業のゆえに、同じ父なる神様に、共に近づくことができる兄弟姉妹です。遠くにいる知り合い、家族などに呼び掛けて、平和の福音を伝えましょう。平和の君イエスに信頼して、共に近づきましょう。