2024年11月17日 説教「思い出してください」”Therefore Remember . . .”
聖書箇所:エペソ人への手紙2章11~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌:8、249、312、540番 招詞:詩篇111篇1~3節
仲間外れの痛みはほとんど誰にも分かると思います。学校や職場、お近状付き合いでも、仲良しの人々と無視されたりいじめられたりする人はいます。笑いながら「いじめられ役」を演じても、心は傷付きます。でも、かつては大嫌いだった人と仲直りができたら、どんなに驚くことでしょうか。
パウロは今日の話で、「思い出してください」と言います(エペソ2:11)。二つのことを覚えるように言います。まず、どんなに仲間外れだったかを思い出してください。そして、だれが私たちを、仲間にしてくださったかを、思い出してください。そう言っています。
一「イスラエル人から見た未信者異邦人」(11節)
- 11節は「思い出してください」の後に、イスラエル人でない人々(異邦人)がイスラエル人にどう見られていたかを記します。「肉においては異邦人でした」。
- これは続く文章の「無割礼」でも描写されています。割礼とは、心から罪深さが切り落とされ、神様との契約関係を受けることを象徴していました(申命記10:16、エレミヤ4:4参照)。神様からの契約を最高の相手として慕って、人間の隣人を自分自身のように愛することを、律法全体で求められました。これはモーセの仲介で与えられたシナイ山契約では細かく規定されて、遡るとアダムに与えられた関係の契約は簡潔でしたが趣旨は同じ条件でした。シナイ山契約のその規定を思い出させる印として「割礼」が与えられました。
- ところが、イスラエル人の多くは形にこだわって、心のことより割礼のルールを重んじました。パウロは11節で彼らを「人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々」と呼びました。
- イスラエル人は他の民と入り混じって、彼らの偶像崇拝を取り入れて、神との契約を実質放棄してしまいました。その結果として、紀元前8、6世紀にアッシリアとバビロニアそれぞれの帝国によって滅ぼされて、各地に離散していました。その一部は罪を後悔して、本来の宗教と民族意識を継続させて、モーセの律法に従おうとしました。彼らはモーセの律法に従わない諸国民を「異邦人」として避けました。異邦人がもし旧約聖書を学び、イスラエルの神のみに従うと決心して、男子が割礼も受けたら、イスラエルの「仲間入り」は可能でした。しかし、偏見のゆえ、イスラエル人はあまり伝えようともせず、事が進むことは少なかったようです。パウロは、この悲しい過去を思い出してください、といわゆる異邦人たちに言います。人間同士の関係がかつて壊れていた、ということを「思い出してください。」
二「神様から見た未信者異邦人」(12節)
- イスラエル人と異邦人との関係など、人間関係はとても大事です。しかし、家族だろうが職場、学校の人だろうが、人間との関係より神様との関係が本当の幸せの大前提であり、大事です。神様から見た未信者異邦人のことを思い出せるように、次に12節を読みましょう。
- 12節 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
- 神様は未信者異邦人の「内」の心と「外」の立場の惨めさを指摘します。五つのポイントで指摘されています。
- ①「キリストから遠く離れ」ていたのです。根本的にこれが問題でした。永遠のいのち、真の生ける神様との生きた関係を持つにはイエス・キリストの他に仲介者も保証人もおられません(第一テモテ2:5-6、使徒4:12参照)。未信者の異邦人たちは、問題②のとおり、外の立場にしても、「イスラエルの民から除外され」ていたのです。③イスラエルの民とその特権からも除外されていたのです。即ち、「約束の契約については他国人で」あったのです。メシアの到来と贖いの御業まで、イスラエルに多くの祝福が託されていました。
- ローマ人への手紙9章4・5節「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。…」
- でも、守らなければならない律法もたくさんありました。ガラテヤ書3・4章はこの問題を指摘する、参照に値する聖書箇所です。
- とにかく、イスラエルの律法を守り、割礼などにおいてイスラエル人のようにならなければ、イスラエルへの約束(未成就)を受けられない時代が長かった訳です。だから異邦人の未信者たちはイスラエル人のみならず神様からしても、祝福を受ける資格のない者でした。
- 第四と第五は「で」の後に来て、セットです。抽象的に言ってではなく、未信者異邦人は以上の三つの問題から、④「この世にあって望みもなく」、⑤「この世にあって…神もない者たちでした」。現世の利益を求める人には、聖書の神様以外の方法で幸せになれると思うかもしれませんが、最終的にそれは希望がありません。神様に会う日が来ますから。その日には、既に神様と生きた関係を持って、共にいる必要がありました。でも神もない者なら、その望みもありません。
- ①「キリストから遠く離れ」ていたのです。根本的にこれが問題でした。永遠のいのち、真の生ける神様との生きた関係を持つにはイエス・キリストの他に仲介者も保証人もおられません(第一テモテ2:5-6、使徒4:12参照)。未信者の異邦人たちは、問題②のとおり、外の立場にしても、「イスラエルの民から除外され」ていたのです。③イスラエルの民とその特権からも除外されていたのです。即ち、「約束の契約については他国人で」あったのです。メシアの到来と贖いの御業まで、イスラエルに多くの祝福が託されていました。
- 神様は、異邦人の未信者を敵と見なしていました。イスラエル人からしてだけでなく、創造主からしても、彼らは敵でした。神に近いイスラエルの民からも神様ご自身からも仲間外れでした。クリスチャンは今も、これを思い出すべきです。クリスチャンでなければ、今もまだ望みも神もない状態です。
三「神様から遣わされたキリスト」
- 今までの深刻な診断の後に、もう一つのことを「思い出してください。」イエス・キリストの良い知らせが来たことを。
- イスラエルに託されていた祝福は実際、イエス・キリストにあって成就されました。イスラエル人の中でも究極のイスラエル人、約束された王(メシア、キリスト)です。そして、13節が言います。
- しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
- 思い出すように言われたことは、11節によると、過ぎた過去の「かつて」のことです!決定的な変化が起きました。仲間外れの生徒を、人気な学級委員長がかばってくれたことを超えています。学校の外から、皇族の王子が助けに来て、守ってあげただけでなく、自分の家に連れて行くことに一応喩えられます。でもそれでは終わりません。「キリストの血によって」これがなされました。イエス・キリストが近づいて、いのちの代価で罪びとを近寄らせてくださいました。と言うのも、異邦人でもユダヤ人でも、間に入る仲介者が犠牲を払わない限り、私たちが罪の代価を払うべき者です。無限の神様に対する罪の無限の重さ故に終わらない刑罰を受けるはずです。
- でもイエス様はその「血によって」、神の近くに行く道を開いてくださいました。イエス様に信頼する者は異邦人でもユダヤ人でも、イエスの完全な「義」の立場を受けて近寄られます。
- 皇族の王子が助けに来たのに、あなたが「いじめられっ子がいい」と叫んで王子を殴ったところ、王子が自分の命を犠牲にしてあなたを助けたことの喩えも不十分ですが、これはもっと似ています。喩えが可笑しいのは仕方ありません。本当の福音の恵みは驚くばかりのものです。私たちクリスチャンでも福音の恵みに慣れ過ぎて、関心しなくなっている場合もあるかもしれません。ですから、皆様も、「思い出してください。」(エペソ2:11)
まとめます。私たちも神様の律法を守らなければなりません。長い間、それはかつて、イスラエルに与えられた律法に従えば良かったですがそれは難しかったです。神に近づけない、望みのない者でした。しかし、イエス・キリストは約束されていた新しい契約を、ご自身の血によって、私たちのような者をイスラエルの特権にも与らせてくださいます。
第一ペテロ2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
今週、思い出してください。キリストを持たない人の状態を。(それがかつての自分なのか今の自分なのかも、吟味してください。第二コリント13:5参照。)そして、イエス様に信頼しましょう。神様は完璧な人を求めません。罪と悲惨な状態の中にいる人をその状態から救い出して、祝福を下さいます。思い出して、感謝して、キリストが近くに来られたこと(特にクリスマスで祝うこと。ヨハネ1:14参照)を人に証ししたいと思います。