2024年11月10日 説教「新しい作品、新しい歩み」”A New Work, A New Walk”
聖書箇所:エペソ人への手紙2章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌:8、374、261番 招詞:イザヤ43:19
誰でも、自分や他の人の過ち、嫌なところで悲しみ、もどかしく思ったことがあるかと思います。さらに、何度も同じ過ち、罪を繰り返す人を見て、「どうせ、良くならない」と呆れ、諦めたことがあるかもしれません。人間を誰よりもご存知の創造主は罪深い人こう指摘されました。
エレミヤ17:9「人の心は何よりもねじ曲がっている。
それは癒やしがたい。」(参照:エレミヤ13:23、ローマ8:7)
人間は、創造主なる神様に反抗して敵対してしまう心の罪びとです。その心を人の力で変えられません。癒せません。だから当然ながら、そこから色々な罪が出てしまいます。
ただ、自分の罪を認めて、イエス・キリストに信頼して赦しを求める者は赦される、と福音は教えます。福音によると罪がないかのように、いや、それ以上にイエス様の義をまとっているように扱っていただけます。今まで見てきたように、イエス・キリスト「にあって」、歓迎されます。全て神の恵みによる賜物だと、前回の8・9節でも確かめました。
でも、外側が義ある衣をまとうようになった人はそれだけで神に放って置かれるのなら、本当に幸せでしょうか。以前ぼろぼろの服を着た泥棒が晴着を来た泥棒になっても、良くはなっていません。神様は本当の幸せとして、外側だけでなく内側をも、死んだ後の約束だけでなく今の生き方をも変える救いを計画され、実際にしてくださいます。
一「実に、私たちは神の作品であって…」
- 10節は「実に」あるいは「なぜなら」で8・9節またそれより前の文に続きます。
- 「私たちは…作品」は単数形、一つとして書かれています。私たち各クリスチャンは、一つの教会にまとめられた、一つの作品です。
- 「神の作品」「作品」は芸術用語、英語の「ポエム poem」(詩)の語源です。被造物についても用いられます(ローマ1:20)。神様は愛を込めて、傑作として造ってくださいました。
二「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」
- では、私たちはどういう意味で神の作品でしょうか。
- 「造られた」の漢字は的確な訳です。単に既存の素材で工作されたのではありません。良いことの「無さ」での創造です。これは天地創造と別の、「新しい創造」です。パウロは創世記の創造だけでなく、新しい創造もあったと述べています。。第二コリント5章17節でそのように書きました。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
- 「キリスト・イエスにあって」聖霊なる神が再創造をなさいます。つまり、イエス様と霊的に結び合わされて、イエス様とのその絆によって、イエス様が得た義の祝福は人にも与えられます。その祝福の一つは、「良い行いをするために…造られた」ことです。
- 罪を赦されることと、罪をしなくなていく過程の関係はどうでしょうか。キリスト者は神様に救われた時、イエス様にあって罪が罰せられた者として、赦された者の扱いを受けました。神様の見た目で、イエス様にあって正しい人(義人)の立場を受けます。罪の結果から救われます。エペソ2章6節が「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」と言うのはそういう事です。ところが、エペソ2章10節はさらに、神様は罪びとの立場を変えることで満足なさらないと告げます!罪びとの心の内と歩みをも「キリスト・イエスにあって」再創造してくださいました。罪の力から救われます。
- 医療者が生活習慣病により臨死状態になった人のために自分の腎臓や肺を提供して、その人を助けたとしましょう。一応生命は続いています。でも良い医療者はそれに満足せず、リハビリや健康な生活をするようにも教えるでしょう。
- 神様は私たちをただ「罪の結果」から救う方ではありません。最悪、臨終のときに救うことができ、それでも私たちは永遠のいのちを天国で味わえます。しかし、イエス様によると、「…わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)クリスチャンの救いはイエスの立場の義によって成り立つが、経験でも、罪から離れて神に立ち返り、神と人を愛する良い行いに励み、喜ぶのはそれに伴います(聖化)。(ちなみに、良い行いとは、行動が正しいだけでなく、動機が神と人への愛であることも必要です。)今から、天国の前味を味わえる資質、心を、神様が私たちの再創造において下さいます。⑴
- 要するに、クリスチャンは罪から救われただけでなく、良い行いをするように救われたのです。
三「神は、私たちが良い行いに歩むように、…あらかじめ備えてくださいました」
- 私たちはイエスに信頼を置いて歩もうと決心したときに神は「えっと、何をしてもらおうか」と考えておられません。エペソ1章4節によると、神様はすでに、「世界の基が据えられる前から」つまり永遠の昔に「聖なる、傷のない者にしようとされた」のです。要するに、救おうと計画されました。もちろん、それは私たちが経験して生きる良い行いをも含みました。クリスチャン一人一人には備えられた良い使命があります。
- 準備された良い行いは楽とは限りません。聖霊様の働きを受けなければ不可能な行いです。でも神様が私たち一人一人を、特定の人間関係と環境に置かれたことに意味があります。神様は、私たちの家族や友人が神の愛を味わい、多くの場合に同じ救いを受けるために、私たちを選ばれました。刷新してくださいます。ですから、私たちの行動と言葉と思いには大きな意味があります。私たちの良い行いは教会堂内に限らず、世の中の全てにおいて、神様に示されている通りに変わっていくのです。
- そして2章2節では、私たちクリスチャンはかつて、神に反対する世と悪魔の導く通りに「歩んでいました」と言いますが、ここによると、クリスチャンは新しい歩みが与えられました。慣れにくく感じても、信仰と悔い改めの新しい歩みが始まりました。神様の偉大なご計画が私たちの内で成し遂げられていきます。⑵
私たちは今日、福音と救いをよりよく把握できたでしょうか。福音が宣言する救いは、赦しを与え天国に歓迎するに必要な義をイエス様から転嫁し、私たちの外の課題だけを解決するのではありません。私たち罪びとの心を神の作品として造り変え始め、今の人生にも神のきよい律法に基づいて生きるように変える、私たちの内側の課題をも解決するものです。イエス・キリストがいのちの代価で買い取ってくださった教会、神の家族の一人一人は福音によって変えられ続けて、生きます。
だから、他の人が、あるいは自分が変わらないと思っても、諦める必要はありません。キリストと霊的に繋がった者は必ず変えられます。期待して、良い行いに励んでください。
ですから、二つのことを覚えていただきたいです。
- 一方で生温い態度でなく、熱い感謝の思いで聖書から神様の御心を知って求めてください。神様の福音は好き勝手にする許可ではなく、内側をも変える「救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)です(テトス2:14参照)。罪の結果からだけでなく罪の力からも救われてこそ、喜びある救いを経験できます。もしも神様に従いたい思いが全くなければ、まず福音を本当に受け入れているか吟味するために、話しましょう。
2)もう一方で、正しいことを正しい心でしようと思っても、何度も何度も同じ罪の泥沼で溺れそうかもしれません。でも、諦めないでください。聖霊様の恵み深い働きかけに期待してください。クリスチャンの支えを求めてください。天のお父様が始められた「新しい作品」は、完成まで導かれる新しい創造です(ピリピ1:6参照)。「新しい作品」は「新しい歩み」を意味します。イエス・キリストが十字架の犠牲をもって、保証してくださいました。だから神様に信頼しつつ、良い行いに励みましょう。
註
⑴ エペソ2章5節でも書かれているが、神様は霊的に死んでいた人を霊的に「キリストとともに生かしてくださいました。」これを「再生」「生まれ変わる」とも言いますが、それによって二つの大きなことが起きた訳です。①8節でイエス様に対する「信仰によって」救われることができました。信じる事のできる心を受けました(信仰によって義と認められること)。これは先の立場の変化です。それだけでなく、②罪を神に嫌われる悪として心深くに認識して悔い改めて、また神様が教える善を愛して求めるようにも、態度と歩みの変化が起きました。それは今日の10節が指している、「救い」の側面(聖化)です。ウェストミンスター小教理問答第31~35問目・ウェストミンスター信仰告白第10~16章参照。再生はこれらの箇所に出る「有効召命」とも言います。
⑵ 後で読みますように、パウロは4・5章で何度か「歩む」ことを話します。私たちが新たにされて、色々な意味で良い歩みをするように導かれます。例えば「召されたその召しにふさわしく」(4:1)、「愛のうちに」(5:2)、「光の子どもとして」(5:8)、「知恵のある者として」(5:15)歩むよう、造り変えられたのです。