2024年10月27日 説教「恵みのゆえに」 “By Grace”

聖書箇所:エペソ人への手紙2章8~9節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会  説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌:10、271B、502番

初めに

 子供から大人まで、努力が報われると嬉しいです。「良い子」「良妻賢母」「まじめな学生」「仕事が上手」「親切な人」「信仰深い人」だと認められ、褒められたり、神様に祝福されたりするはずだ、と思いがちです(教会の外でも中でも)。けれども、今日の箇所は、最高の報い、ご褒美である「救い」について不思議なことを言います。「だれも誇ることのないため」、それは「恵みのゆえ」である、と。

一、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われた」(8節前半)

  • エペソ2章4~7節は、創造主なる神、聖なる神様は罪の中に死んで、霊的に汚れた人々をイエス・キリストと結び合わせて、イエスの復活によって人を共に生かし、天国の祝福を下さったと教えます。何ゆえにそうされたのか。それを、どう見たら良いのか。8節は教えます。「この恵みのゆえに」です。聖書的な意味で「恵み」はただの優しさや憐みではありません。受ける資格を棄てた反抗者に、神様が祝福を一方的に、イエス・キリストが代価を払って、下さることです。イエス様の業の全て(義)が救いの根拠です。人の貢献は(罪以外には)何もありません(讃美歌271番「功なき」私たち)。恵みが、人が救われる唯一の理由です。
    •  逆に言うと、私たちの優しい行動や神様を受け入れる思いなどは救いの理由では全くないのです。どんなに親切な人でも、その善さで神様との生きた関係を受けられません。多少の助けさえあれば、自ら信じて神様の平和を得られる人はいません。既に2章1節で確認したように、私たちの本性は「自分の背きと罪の中に死んでいた者」の状態です。したがって、救いは専ら神の恵みのゆえに与えられます。
  • 8節は続きます。「あなたがたは信仰によって救われた」とあります。信仰を通して救われた、という意味です。信仰は救いの根拠(それはイエスの儀)でも理由(それは神の恵み)でもありません。信仰は、救いを受ける手段です。知識や了解を超えて、教理が指すイエス様に自分を委ねて、信頼を置くことです。「信頼を置く」のも、受け取る「管」と言えますが、何かを成すのではありません。 
  • 8節前半の最後「救われた」のです。決定的に済んだという言い方(完了形)です。では、何から救われたのでしょうか。仏教の「救い」などと異なります。この箇所の前後を見れば、どういう救い、何からの救いかもう少し分かります。他のことからの救いでもあるが、例えば…
    • 2章1節、霊的な死から(罪の奴隷の生活から)。世の流れ、悪魔の働きかけ、自分中心の欲望の奴隷の生活から解放されるのは、救われることに含まれます。5節は神様が「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」と言います。神様は恵みのゆえに、霊的な死から救ってくださいます。
    •  2章12節、絶望から。「世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」クリスチャンでない方でも、楽しい人生を送られます。けれどもそれは空しいです。神様に対する反抗の罪を多少なり自覚します。死後に何もないと言っていても、最期が近づくと恐れと失望があります。ところが、神様は神から切り離される、絶望の状態から救ってくださいます。
    •  2章3節、神の「御怒り」から。神様は完璧なお方で、不思議ですが、同時に完全に聖なる怒りを人の罪と罪びとに向けても、イエス様を通して、聖い愛を向けてくださいます。イエスがその怒りを身代わりとして受けるようにされたからです。神様は恵みのゆえに、神の怒りからも救ってくださいます。

二、「神の賜物」(8節後半)

  • さて、翻訳する人にとって大切なポイントがあります。「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」と8節後半が言います。「それ」とは、信仰だとか、救われることだとか、聖書の翻訳者は議論してきました。文法と文脈からすると「信仰を含め、救われること全体」は神の賜物とパウロは言うでしょう。私たちは信仰を含め救いを受けたことに関して、貢献はありません。先ほどの前後の箇所から、それは明らかです。聖霊なる神様が心の死んだ人に働かれるからこそ、生きた心を持ち、信仰の「管」を通して主からの赦しときよめを受けられます。これは全て、神の恵みゆえの賜物です。
    • エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(ヨハネ3:1-8、使徒13:48、第一コリント12:3、申命記30:6など参照)
  • ローマ人への手紙4章でもパウロは、イスラエルの民の父祖アブラハムの経験から信仰のみの原則を示します。アブラハムは神を信じて神様から「義」ある人と認められたが、神様がそうするべきように功績があったからではありません。アブラハムはただ、神様の恵みによる約束を信じて、受けただけです。前の章のローマ書3章23-24節が完結にまとめます。
  • 神の恵みは一方的に、イエス様が代価を払って救いを得た現実により、信仰で受けられる救いを可能にしました。「価なし」の賜物です。

三、「だれも誇ることのないため」(9節)

  • エペソ書2章9節は8節の意義をはっきりと示します。
    • 「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
  • 信じるのも、主の報いを呼び起こせる価はありません。救いは父、子、聖霊の神様の一方的な恵みの御業によります。この節は私たちにとって、受け入れ難いかもしれません。誇りたいからです。クリスチャンになる前もそうですし、クリスチャンになってもとても高慢になることが可能です。自分の努力であの罪この罪から離れたとか、熱心に祈っているなどと思えば、自分に目を向けがちです。
  • 宗教の自由が一応ある日本のクリスチャン人口割合がこんなに低い一つの大きな要因は「誇り」だと思います。日本人は国民として、誇りとする理由が多いです(歴史・技術・経済・芸術・美感・秩序など)。概ね、立派な「善い人」の民族です。でも、それは逆に福音を拒む言い訳になります。神様の前で自分は弱い「罪びと」だと認めて、イエスに自分を委ねるのは、誇りが剝ぎ取られることです。クリスチャンになっても、自分は人また神に認められるのかを、自分の生き方や見た目を物差しにして気にしがちです。
    • 私もその気持ちが分かります。全ての人間の課題です。何かができたから、何かであるから、誇りたいです。神に拠り頼むべき私たちは自分の努力、生き方、また信仰が救いに貢献して、誇りに価すると思いたいです。でも神様は、それをお許しになりません。

適用

 今日の箇所で、私たちの福音理解が試されると思います。私たちは人生を通して何かの報い、ご褒美を求めていますか。善い人と思われて、何か得ようとして必死ですか。あるいは、希望と平安を抱いていますか。「恵みのゆえに救われた」と信じるなら、平安と希望を持つように救われています。それを受け入れているかどうかを確かめる診断の質問をしたいと思います。「恵みのゆえに救われた」と信じるなら、あなたはそのとおりに考え、感じ、生きてますか。例えば、①祈りの熱心さや頻度で神様にほしい答えを出させようとしていませんか。大胆に祈るべきです。でも、恵みを獲得するためではなく、恵みによって、イエス様の獲得された義を通して神と愛の関係に入れられたからです。

 ②不安や自己卑下によく陥りませんか。そうなら、ほしい誇りを得ていないからもどかしく感じているかもしれません。

 ③あるいは、願わないことを経験すると神様に「こんなに忠実に仕えてきたのに」と責めたくなりませんか。人を責めたくなりますか。自分はもっと良いことを受けるべきだと感じますか。

 私たちはこのような葛藤を覚えると思います。自分の生き方を理由に、うまく行くはずだと決め付けることがあります。(逆に失敗すれば神の愛が変わると思って落ち込むことも。)でも、神様は自ら恵みをもって働かれます。だから、ただ恵みのゆえに救ってくださる神様と初めて、あるいは再び、出会いましょう。キリストに対する「信仰によって」、死と失望と神からの裁きより救われます。最高の報いは、神と永遠の喜びを持つことです。それは、価なしに、イエス様によって獲得済みです。聖霊様が価なしに、それを人に転嫁され、救ってくださいます。自ら誇れるものは一切ありません。ただ、キリストが私たちの誇りです。恵みが誇りです。

註 

⑴ ピリピ3:9・ガラテヤ2:16・ヨハネ1:12、ウェストミンスター大教理問答第73問参照。

 ⑵ 使徒15:11・ガラテヤ2:20、ウェストミンスター信仰告白14:2参照。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)