2024年10月20日「キリストとともに生かされた者」 “People Raised with Christ”
聖書箇所:エペソ人への手紙2章4~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア
初めに
最近、何かに感動して褒めたくなりましたか。何に感銘を受けますか…。特に人の成功には、料理から製造、スキルでも芸術も、「何もない」と言われたところで何かを作り上げるときに私たちは人を褒めるでしょう。
聖書は神さまの栄光について良く語りますが、それは全宇宙が感心するべき御業(みわざ)です。味わえば、賛美せずにいられません。だからこそ、クリスチャンは大きな声で賛美を歌って、祈ったり泣いたり、周りの人からすればおかしいぐらい、イエス・キリストを慕います。「キリストとともに生かされた者」だからです。その意味を確認しましょう。
一、死んでいた私たち(4・5節)
- 前回の話を振り返りましょう。使徒パウロは、クリスチャンに語っていますが、4節でこんなに暗い診断を出しました。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」ました、と過去の状態を述べます(1節)。つまり、神に反抗する世間の流れに従い、悪魔のそそのかしに従い、自分の反抗的な欲望に従い、歩んでいました。前回も見ましたが、ローマ人への手紙でパウロはさらにこう解説します。
- ローマ8:7 肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。 (ヨハネ8:34参照)
- 気が向いたら、あるいは、私たちが上手な議論で説得すれば、あるいは、彼らがただ奇跡的なことを見ることができたら、人が神に立ち返るという話ではないのです。多少の助けがあっても、人間は自ら神様またイエス様を絶対に信じません。息絶えて、腐敗始まった遺体が応答できないように、霊的に死んだ人は神の恵みに応答することができません。罪によって人が弱っているという箇所もありますが、この箇所はより厳密に、厳しい現実を伝えます。人間の心は完全に堕落して、神様を拒んでしまうからです。呪われた、裁きに値する者でした。だから、人が変わるのを望むなら、神様にそれを求めるしかないのです。
二、ともに死んで、蘇られ、天に昇られたイエス様(5~6節)
- キリスト教のすごいところの一つは、神様が人間になったことです。しかし、完全に神様でありながらも、完全に人にもなられました。(日本の天皇の天下り、ギリシャ神話で神と人間の間に子が生まれるなどの話とは違います。)それによって、イエス・キリストは神様と人間の仲介者(第一テモテ2:5)として、救われる人々の代表となり、人間の性質において死を、身代わりとして通ってくださいました。十字架上で神様に裁かれ呪われた際、イエス様は霊的にも死んだ状態を経験されました。その後、身体的に死なれ、葬られました。
- しかし、そこから、1章20節にあるように、神様が奇跡を起こされました。
キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせました。
神の子がそうなるのはしかり、なるべきことでした。けれども、1章23節で「教会はキリストのからだであり」とも言います。からだは頭から離れていません。イエス様は、ご自分と繋がり教会という共同体に加わる人間にご自身の祝福を共有されます。- 2章5節「キリストとともに生かしてくださいました」。これはさらに6節で続きます。「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」
- キリストと共に生かされ、つまりよみがえらされ、さらに天国に引き上げられ、王のように着座させられました。もちろん、エペソ1章3節のようにこれは霊的な祝福ですが、イエス・キリストの霊的そして身体的な復活に基づく、伴う出来事でした。イエス様はそのからだである、救われる人の共同体から切り離されないように、共に生かしてくださいました。死んでいて、神様に対して全く応答できない状態の人間を、霊的に生きる、つまり応答して、愛の関係のうちに創造主と関われるように変えられました。「恵みの契約」の絆によって、クリスチャンの共同体は全く新しい現実に生かされています。
- 讃美歌148番の英語では「Made like Him, like Him we rise」(イエスのように造り変えられて、イエスのようによみがえる)と歌います。イエスがまず私たちのようになってくださったからです。死んで私たちのようになり、生きて、私たちをご自分のようにならせました。
三、蘇らせ、天に昇らせた神様の恵み(7節)
- 6節の事実だけでパウロは満足しません。神様も、単純に人を霊的に生かし、祝福して、それだけで満足なさいませんでした。人間のように、目的があります。神ご自身の素晴らしさが輝き、喜ばれ、誉め讃えられるためでした。
- 7節 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
- 「限りなく豊かな恵み」と1章19節の「すぐれた力」は同じ言葉を使って、神の力も神の恵みも、絶大に、他すべてを超越したレベルだと示します。神の恵みは何にも負けません。そして神様はそれを、「来たるべき世々に示す」御心でした。イエスの復活以降の世(時代)、そして永遠の世において、人も天使も悪霊も全て、イエス・キリストにあって罪びとに与えられる恵みの誉れが響き渡りますように。
適用
神様は、人間の罪による死と無力の現実にもかかわらず、イエス・キリストとの結びつきをもたらして、キリストの「からだ」なる教会に「かしら」なるキリストの祝福を共有させてくださいました。
罪を犯されないのに、罪を犯してきた人にご自分を繋げて結び合わせて、神の子となる人の代表者となってくださいました。その立場で罪を犯したかのように神の裁きを受けてくださいました。でも逆に、今日の箇所が教えるように、その続きは、イエス様がご自分のいのちと栄を同じ人に共有してくださいました。そしてその目的は、神ご自身の素晴らしさがその恵みに現れる為であった訳です。こんなに大きな恵みをもって、神様が愛してくださいました。
私たちが感銘を受けて、褒める人間のわざは、何か活用できる材料を用いて、素晴らしいことをする業です。しかし神様が示した御業は、マイナスからゼロを越して、プラス無限大に飛躍した奇跡です。話にならない、話が始まらない、罪の中で堕落して死んだ人間に、イエス様はいのちを共有してくださいました。
7節の適用を展開して、適用の質問をしたいと思います。「あなたの心はキリストとともに生かされて、神様に感謝と賛美の人生を捧げたいと思っていますか。」
神様はご自分の民を大きな愛で愛したゆえ(4節)、私たちが神の恵みを見て、喜べるようにしてくださいました。すなわち、イエス様と連なる者として、霊的な命と祝福を受けさせてくださいました。だから、私たちには誰よりも歌う理由があります。神の恵みを噛み締めて、他の人と分かち合っていますか。
楽しみにして、毎日、練習して、永遠の賛美の前味を噛み締めてください。
ローマ12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
私たちの生き方の歩みは、私たちがイエス様とともに生かされたかどうかを表します。神に喜ばれる生き方を求めて、公の礼拝の外でも続く礼拝をしたいと思います。喜びながら、喜びの源イエス様の素晴らしさに感銘を受けて、歩みましょう。