2024年9月22日「耳を傾ける神様」”The God Who Listens”
講壇交換で、許泰誠牧師が説教してくださいます。説教の聖書箇所:ルカの福音書18章1〜8節
緒論:神の人モーセは、詩篇90編10節で私たちの人生をこのように表現しました。一緒に探して読みましょう。旧約1030ページです。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは、労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。
この言葉を通してモーセは、二つのことを話します。一つは私たちの人生が非常に短いということで、もう一つはその短い時間でも、自分の力で解決しにくいことが多いということです。私たちはモーせの言葉に同意せざるを得ません。なぜなら、私たちが今まで生きてきて多くの難しい経験をして見たからです。
私たちの日常生活には多くの課題や困難が存在します。そんな時、私たちはどう行動すべきでしょうか。本日の聖書箇所でイエス様は、常に祈り続けることを教えてくださっています。
本論:私たちが今日の言葉から学べること三つを考えてみようと思います。
第一は、絶え間ない祈りの重要性について学ぶことができます。イエス様が話された「不正な裁判官とやもめ」のたとえ話は、ある町に神を恐れず、人をも敬わない裁判官がいたことから始まります。その町には一人のやもめがいて、彼女は裁判官に自分の正義を求め続けました。裁判官は最初彼女の願いを無視していましたが、彼女が何度も何度も訴え続けたため、最終的に彼女の願いを聞き入れました。
このたとえ話は、私たちがどんな状況でも諦めずに神に祈り続けることの大切さを教えています。このやもめのように、私たちも困難に直面したとき、神に頼り、祈り続けるべきです。イエス様はこのたとえ話を通して、神が私たちの祈りに耳を傾け、応えてくださることを强調しています。不正な裁判官でさえ、やもめの粘り強さに負けて正義を行いました。それなら、正しい神が私たちの祈りに応えてくださらないはずがありませんか。
第二は、今日の言葉には、私たちがもっと深く考えるべきメッセージがあります。1節を見れば、イエス様がなぜこの比喩をおっしゃったのかが分かります。1節をお読みます。「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」つまり、この言葉は、私たちがいつも祈っても、時々失望する状況があることを暗示しています。
なぜ私たちは、祈っていて失望するのでしょうか。それは、私たちの祈りに神様の応えがないからです。そんな時に私たちは、極端な考えに陥りやすいです。それは、私自分自身に問題があると思うことです。私たちの祈りの量が足りないから、神様の応えがないのだと思います。そのような観点から今日の本文を読めば、私たちもやもめのように祈り続け、神様を煩わしくしなければならないと考えることができます。
しかし、それは間違った考えです。なぜなら、私たちの神は不正な裁判官とはまったく違うからです。神様は、私たちが祈りを始める前に、私たちのすべてを知っています。神様は私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された愛の神様です。
今日の本文がする話は、神様は私たちの境遇をよく知っていて、極めて愛していますが、私たちの願いを叶えてくれないこともあるということです。願いを叶えてくれない理由は本文に出ていません。その理由はそれぞれ異なります。聖書にはそのような事例が記録されています。
申命記34章4節を見ますと、カナンの地に入りたがっていたモーセの願いを、神様はなぜ叶えてくれなかったのでしょうか。コリント人への手紙第二の12章7節から9節を見ると、肉体のとげを除去してほしいと言ったパウロの祈りをなぜ断ったのでしょうか。私たちがその理由を知ることもできず理解することもできませんが、神様はそれがもっと良いと判断されたからです。
また、神様は私たちがいくら祈っても、まだ神様が決めた時にならなければ、聞いてくれません。創世記39章から41章を見ると、罪を犯さないようにして、無念な濡れ衣を着せられ監獄に入ったヨセフは一日も早く外に出ることを望んだが、神様は彼を2年間もさらにそこに留まるようにしました。私たちは何でも早く叶うのが好きですが、時々神様は、より適切な時になるまで待たせます。
神様が私たちの祈りを聞いてくれないのは、神様に他の計画があることです。神様が私を嫌ったり、神様の力が足りないからではありません。祈りに答がないとき、サタンは私たちにささやきます。「神はあなたを愛していない。神もあなたの問題を解決する力がない。神は存在しない。だから祈らないでください。」 そういう考えが訪れた時に、倒れないように、絶望しないように気をつけてください。
ここで大切なポイントがあります。祈りの結果がすぐに現れないことがあるということです。それでも私たちは諦めず、信仰を持って祈り続けることが必要です。なぜなら、神のタイミングと計画は私たちの理解を超えていますが、神様はいつも最善を成してくださるからのです。
第三に、最後まで信実な信仰を持つのが必要です。このたとえ話の最後に、イエス様は8節で、「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と問いかけられます。私は聖書でこの言葉が最も恐ろしい聖句だと思います。しかし、私たちにとって、最も必要な聖句であることを忘れないでほしいです。もしあなたがたが、信仰生活がうまくいくことをお望みでしたら、この言葉を書いて壁にかけて毎日読んで黙想するようお願いします。
この言葉を黙想しながら、私たちは今、神様の真の約束だけを眺めながら、大胆に信仰生活をしているのか。それとも、私が望むものを得るために教会に通っているのかを真剣に自問してみなければなりません。私たちは一生懸命祈れば、神様が答えてくれるという自信を持って祈ることはできます。しかし、このような自信からさらに一歩深い信仰に入らなければなりません。
このような祈りをすることができれば、神様はどれほど喜ぶでしょうか。「神様、今日も私にとげがあり、困難があります。こんなものをなくしてほしいという私の祈りに、神様は答えてくれませんでした。それでも、私はいいです。神様は全宇宙の万物の主人です。神様は私の父です。私は神様の深い心と知恵を全て知りませんが、私はあなたに降伏します。私は自分の思い通りではなく、あなたの思い通りになることを望みます。なぜなら、あなたの思いは私の思いと異いますが、あなたの思いが私の思いより高いということを知っているからです。私はあなたに全てを任せます。」
神様は、私たちが最後まで信仰を持って生きていくことを望みます。現代に生きている私たちも、信仰の試練に直面することがあります。しかし、そのような時こそ、祈りの中で神に近づき、信仰を深める機会とするべきです。私たちは自分の状況をいつも喜ぶことはできませんが、自分の状況を治めておられる神様を喜ぶはできます。
結論:ルカによる福音書18章1-節のたとえ話は、私たちに祈り続けることの重要性と、神の正義が必ず現れることを教えています。時には私たちの祈りが答えられないことがあります。その理由は、自分の欲通りに求めるからかもしれませんし、まだ神様の時が来ていないからかもしれません。 しかし、私たちは絶望してはいけません。なぜなら、私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者ですから。(へブル10:39)