2024年9月8日「現実が心に届くように」 ”That Reality Would Sink into Your Hearts”
説教の聖書箇所:エペソ人への手紙1章15〜19節
「頭では分かっているけど、気持ちや心配が違う方へ走ってしまう」と思うことはありますか。車で大きな橋を渡るとき、「これは崩れて、私が落ちるかもしれない」と恐ることがありますか。その可能性が極めて低いというのは現実かもしれません。しかし、心配になるかもしれません。また、「頭では神様が自分を愛していると分かっている積もりだけど、私の信仰が弱いから、最終的にだめかな」や「神様は自分を本当に愛して、助けられるのか」と思うことはあるかもしれません。
頭では分かっていても、心で思わないと、不安な生活を送ります。聖書の真理また現実は心にまで届く必要があります。使徒パウロは、素晴らしい真理と現実を伝えてから、まさにそのように祈りました。
これまでしばらく見てきたエペソ書1章3〜14節は讃美歌のように、神様が誉め讃えられますようにと始まり、誉め讃えられる理由をうたってきました。4〜6節で父なる神のご計画…7〜10節で御子イエスの贖いと統治…11〜14節で聖霊様が人々をイエスに関する良い知らせによって変えられることは賛美されました。しかし、聞き流しや頭だけの理解に止まらないように、パウロは今日の箇所を書いています。パウロがエペソのクリスチャンたちをどう思うか(15・16節)、パウロが祈り求めること(17・18節)、そしてその祈りの結果としてパウロが求めていたこと(18・19節)を順番に見ましょう。
- パウロがエペソのクリスチャンに関する報告に反応する(15〜16節)
- エペソ人の反応と変化は13節から15節まで、16節はその報告に対するパウロの反応です。
- 15節 エペソ人の応答とは、①「主イエスに対する…信仰」②「すべての聖徒に対する愛」の表現でした。クリスチャンの生活の本髄は「主イエスに対する…信仰」ですが、信仰があれば悔い改めが付きものであり、変えられた思いと行動と言葉も伴います。クリスチャン同士、教会の中の愛はその特徴の一つです。 ヨハネ13:35「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
- 16節 パウロの応答は16節にあるとおり、感謝とお願いの祈りです。パウロは絶えず、祈り、感謝します。頻繁に、おそらく毎日、パウロはエペソのクリスチャンたちを思い出して、神様に彼らの今までの進歩を感謝して、さらに前進のために願い事を祈っていたでしょう。
- パウロが祈り求めること(17〜18節)
- 17節でパウロはどなたに祈るのでしょうか。「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父」に。クリスチャンは原則、イエス様に祈りません。イエス様が仲介者なので、私たちは父なる神様に祈りを捧げるように教えられます。1
- 祈るのは、「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」
- 聖霊様「御霊」はすでに、13・14節のとおり、信者に与えられています。しかし、5章18節にあるように、聖霊様に従って、満たされるかは私たちが求めるかどうかで変わりえます。パウロはクリスチャンが神のみことばを信じて、神様を頼りにして、理解できるように祈り求めます。2
- 「知恵と啓示の御霊を」。イザヤ11章2節「それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、 【主】を恐れる、知識の霊である。」聖霊様が救い主イエス様に宿ることを予告したイザヤの言葉は、今度、イエスをメシア(キリスト・王)として信じる人にも当てはまります。その霊が与えられなければ、私たちは神を親しく知ることができません。知識として頭で分かっても、心で本当に知って、聖書を正確に理解できるのは、御霊を受けた人たちです。3
- 18節で、パウロはこの願い事を「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」と言い換えます。私たちは聖霊様の助けがないと、はっきり見えません。現実は目で見ても、あるいは頭で習っても、心に届かないと私たちは変わりません。だからパウロは「現実が心に届くように」祈っています。
- パウロが、クリスチャンたちの心に届いてほしい三つの現実(18〜19節)
- 三つの現実が心に届いて、私たち信じる者の、世界と人生の見方(世界観)を新たにするように、パウロが祈ります。
- ①クリスチャンが召された現実 エペソ書1章18節で「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」知りますように。すでに、パウロは1章5節で、神様が「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」と教えます。そしてローマ書8章30節によると、「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し」てくださり、最終的に完全な者とするご計画があります。振り返れば、エペソ1章9節で神様は「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」いました。13節で「救いの福音を聞いてそれを信じた」ようにしてくださいました。これらは、神の召しの現実を語ります。4
- その現実が心に届いて、希望、望みを生まれさせるようにパウロは祈っている訳です。神様が自分たちを呼んでくださったと知って、恐れなくても良いと分かりますように。
- ②クリスチャンの相続の現実 続けて、18節で「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」知りますように。エペソ1章11〜14節の説明の際、クリスチャンは神と神の国を相続するが、同時に神はクリスチャンを自分の民として得られる側面もあると言いました。その中で、14節は「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証」と教えるでしょう。
- その現実が心に届いて、神の国の栄光を楽しみにして今の試練や苦しみを耐え忍ぶためにパウロは祈っている訳です。神様がその子供に永遠の幸せを下さると確信しますように。
- ③クリスチャンの心の中で神が働かせる力の現実 19節 にある、三つの知ってほしいことがクライマックスです。「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」「すぐれた力」は他の何ものをも遥かに凌いで大きな力の事です。5神の力は抽象的に絶対だけでなく、神様が実際になすことは絶大な力を表すのです。11節の「すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい」という現実の言い換えです。
- その現実が心に届いて、すでに書かれた神の召しも神からの相続も確かだと知って、信頼し続けるようにパウロは祈る訳です。神様の約束を阻むことが何もない、と安心できますように。
適用と結び
- パウロが言った三つの現実は私たちの心にも届いているでしょうか。私たちは信頼して、安心しているでしょうか。6現実を頭で分かるだけでなく心で信じることは日々の戦いです。神様は自分を見捨てたのじゃないか、見捨てて当然じゃないか、あるいは助ける力は本当にあるのか、と疑うことは密かに、無意識にあるかもしれません。私もそのように疑ってしまう自分に気付かされます。
- クリスチャンでなくても、私たちは創造主なる神様によって特別な存在として、神様と関係を持つ者として造られました。神様によって知られて、大切にされています。しかし、神様を喜ぶどころか敵対する反抗者として歩む罪人でもあります。相続どころか刑罰に値する者です。ところが、神様は相続を与えるために、超強い力で働き続けます。私たちの信仰や行いでなく、イエス・キリストが心に与えられる安心の根拠です。
- 腐った竹の棒を繋げて作った橋と、普段から渡るような道路の橋を比較してみてください。高所恐怖症などを否定していませんが、後者はしっかりしていて安全です。前者は確かに危ないです。でも竹の棒を、自信満々で「絶対に大丈夫」と言い張る人と、震えながら、時速20kmで小鳴門橋を超える人がいるとすれば、「信仰」が強いのは前者です。しかし安全なのは後者です。
- 土台の現実は、イエス・キリストが私たちの不信仰、鈍感な心と反抗心の罪のためにも、十字架で死に、葬られ、三日目によみがえられたことです。この現実が心に届けば、「安かれ、我が心よ」と歌えます。
- あなたがイエス・キリスト以外何にでも(自分の良い行い、業績、人に好かれることなど)を心の拠り所と誇りとしていますか。それはいつか崩れます。あるいは、イエス・キリストに、永遠に神様と生きた関係を持ち、喜べる歩みを下さると希望を置いていますか。その信仰が弱くても、「この方に信頼する者は、 だれも失望させられることがない」とローマ書10章11節が告げます。
- 私たちは神様の前で罪人であっても、イエス・キリストに信頼しているなら、神様の圧倒的な力が私たちの永遠の幸せのために用いられています。7これは全て、神様の絶大な力によってなされます。だから、恐れないで、イエス・キリストに信頼しましょう。現実が私たちの心に届けられると、人に仕えて、安心する力が心に生まれて来るでしょう。
- 腐った竹の棒を繋げて作った橋と、普段から渡るような道路の橋を比較してみてください。高所恐怖症などを否定していませんが、後者はしっかりしていて安全です。前者は確かに危ないです。でも竹の棒を、自信満々で「絶対に大丈夫」と言い張る人と、震えながら、時速20kmで小鳴門橋を超える人がいるとすれば、「信仰」が強いのは前者です。しかし安全なのは後者です。
註・補足
1マタイ6:9、主の祈り参照。また、ここはイエス・キリストがへりくだって父なる神を神とも呼ぶ箇所の一つです。ヨハネ20:17参照。
2ウェストミンスター大教理問答問81・83参照。イエスを信じて神の御前で歩む者は聖霊様より確信を持つことができ、また、神の愛、平安、喜びも聖霊様から受けられる、と書いてあります。
3第一コリント2:6-16参照。
4ウェストミンスター小教理問答第31「…御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受いれるように説得し、受けいれさせてくださる…」新教出版社版(榊原康夫訳)。
5「超ごつい力」?
6 今日の招きでも神様が仰いました。イザヤ43:1-2「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたは、わたしのもの。 あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしは、あなたとともにいる。 …」
7ローマ8:30の現実に続く8:31-39は、パウロがその現実を心に適用する傑作です。