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2015/05/31 ルカの福音書二二章21~23節「裏切る者をさえ」

私は小説や映画が好きで、結構色々なジャンルのものでも好きです。もちろん、苦手な話もあります。特に、悪者の所に、刑事が身分を偽って潜入する話とか、嘘をついてしまう話はダメです。いつバレるんだろう、と心配になって苦しくなってしまうのです。必ずそういう化けの皮は剥がれて、「裏切り者」は大変なことになるのですね。バレたら困る事実があるのは、たとえ映画でも落ち着かなくてイケマセン。今日の箇所でもイエス様がこう言われました。

21しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。

22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

 こういう言葉を読むと、その時テーブルで、あのユダはビクッと震えたんじゃないか、必至で頭の中で何かを考えたんじゃないだろうか、とドキッとしてしまうのです。けれども、

23そこで[他の]弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

とあります。それでユダはますます焦ったのでしょう。バレたら血祭りですよね。しかし、

24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

と話題が変わってホッとしたのかなぁ、と思ったりするわけです。

けれども、そんなふうに話題が変わった事自体、実はイエス様の真意から離れた聴き方だったのではないでしょうか。そんなすぐに聞き流して良いような話をなさったのでしょうか。もっとそれは真剣に耳を留めるべき言葉だったのだと思います。

実は、マタイとマルコの福音書では、イエス様が裏切り者の存在について教えられたのは、パンと杯をご自身のからだと血だと仰って、分けてお渡しになる、後ではなくて、前なのですね[1]。そして、ヨハネの福音書を見ると、その後、ユダは出て行ったとあります[2]。ですから、ユダ抜きで、イエス様はパンと杯を渡されたのでしょう。けれどもルカでは、イエス様がパンと杯を配られた後に、この言葉が来ます。そして、それを聞いても、弟子たちは軽く聞き流してしまうのです[3]。ユダはどんな思いをしたか、いいえ、ユダがいたかさえ問題にしません。これは、弟子たちに向けられた言葉でした。そうです。これは、私たちが聞き続ける言葉です。

21…見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。

22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

 さて、思い出してください。イエス様はすでに、最後の晩餐をなさいました。ご自分が肉を裂かれ、血を流されて、弟子たちの代わりに神にご自身を捧げ、新しい契約をお立てになると宣言されました。その食事をされた上で、そこに裏切る者の手があると仰ったのです。「そういう者は、わたしの契約には与れない」とは言われませんでした。また、「わたしの契約に与っていながら、裏切るような者はただではおかない」と脅されもしませんでした。すべてを見通している眼差しで、裏切る者の存在を指摘されたのです。また、22節の「わざわいです」も、何か「わざわいがあれ、呪われてしまえ」というような、冷たい言葉のように響きますが、強く深い悲しみの感嘆詞なのですね。イエス様は裏切り者のことを、怒ったり、突き放されたりされたのではありません。むしろ、深い悲しみをもって嘆いておられるのです。

この最後の晩餐の席で、イエス様はご自分の十字架の苦しみを前に、その十字架の犠牲によって、新しい契約を完成して、弟子たちのために新しい時代を宣言されます。しかし、その弟子たちの中にある裏切りの可能性をイエス様は見据えておられます。その裏切りでイエス様が去って行くことも、神様が定めておられたことです。けれども、その裏切りを働いた本人は、自分の身に苦難を招きます。蒔いた種を刈り取ることは誰も逃れられません[4]。そもそもイエス様から溢れる恵みを戴きながら、そのイエス様を裏切る、そういう生き方自体がその人の問題、悲惨さを物語っています。イエス様は、そうした本人の抱えている闇、苦しみを想い、深く、激しく悲しみ、嘆かれます。冷たく突き放すどころか、篤く思いを寄せられるのです。

聖書が描く人間の歴史全体が、神の御真実に対する人間の裏切りの物語です。溢れる恵みを戴いても、いつの間にか、あるいはひょんなきっかけで、神から離れ、罪を重ねてしまう。それに気づいて砕かれて、赦されて、感謝して、また違う形で神に背き、契約を踏みにじる。そして、それにやっと気づいて、懺悔して、赦されて、でもそのうち思い上がり、という繰り返しです。旧約だけではありません。初代教会の歩みでもそうです。「使徒の働き」でも、献金を胡麻化したアナニヤ夫妻も出ましたし、パウロはエペソの長老たちに、

使徒二〇30「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分たちのほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」

と言い切りましたね。私たちは「自分は大丈夫、自分はもう裏切ったりしない」と自惚れる事は出来ません。むしろ、主の聖晩餐の度に、「自分自身を吟味しなさい」と勧められるように、自分の危うさに気づかせていただくのです。自分を吟味して大丈夫だから、パンと杯をいただける、のではないのです。自分のどうしようもない危うさ、叩けば埃ばかり出るような私のためにこそ、イエス様が十字架にかかり、その私だと知った上で、ご自分の体を裂かれ、血を流してくださったことを覚えるのです。私も同じ過ちがある。裏切るかも知れない。罪を犯すかも知れない。人を傷つけ、後悔してもしきれない事をしてしまう。誰をも裁けない自分である。まだまだ失敗をしながら、痛みをもってようやく変えて戴くしかない。でも、甚だしい失敗をしても、その事にこそ、憐れみ深い主が働いて、恵みを現し、回復してくださるのだ。そういう謙虚な自己吟味こそが、主の聖晩餐に与る私たちが繰り返して立つべき態度なのですね。

主は、裏切り者をさえ愛してくださいます。そして、愛するからこそ、その裏切りを大目に見たり許容したりはなさいません。裏切りがもたらす禍や裏切りをもたらす心の闇を深く憐れみ、強く嘆かれます。バレたら困る行動を取ったり、関係を壊してしまうような過ちを、私たちはどうしてやってしまうのでしょうか。主イエスがその私たちの所に来てくださって、私たちを新しくするために、語りかけています。私たちが自己過信を捨てて、自分の危うさに気づき、本当に謙れるように願いましょう。間違った意味で「自分は大丈夫」と思おうとするのは最大の誘惑の一つですね。嘘や間違った方法を頼ろうとしても、祝福はないのだと肝に銘じましょう。また、イエス様は、裏切られても、そこでなお神様の定めが妨げられることはないと信じました。でも、その裏切りを強く嘆かれ警告なさり、そういう彼らが、変えられ、回復されることを篤く願われました。私たちが、イエス様の福音の素晴らしさによって変えられて行くとき、私たちの人に対する思いもそのようなイエスに倣う心へ変えられていくのです。

 

「私たちの心を知り尽くしておられる主が、禍から幸いへと導いてくださることを感謝します。今ここにある私たちの手を調べてください。隠しているものを明るみに出してください。自分を過信する自惚れを捨てて、あなたの厳しくも暖かな光の中に、歩ませてください。私たちを癒やし、人の裏切りや罪よりも強く聖いあなたを信じる喜びを求める者とならせてください」



[1] マタイ二六20~29、マルコ十四18~25、参照。

[2] ヨハネ十三21~30。

[3] これは、この後の、31~34節でのペテロの試練についてのやり取り、35~38節の危機の時代への準備の言葉も、同様に、トンチンカンなすれ違いで応えられていることにも通じていく、この部分でのパターンです。

[4] 実際、ユダは自分の裏切りに耐えられず、自殺してしまいました。